昭和41年04月20日 朝の御理解
めぐりが大きければ、大きいだけおかげも大きいと。難儀が大きければ大きいだけ、おかげが又大きいと言う事ね。けれどもその、そこんところを本当にそうだと分らせて貰い、思い込ませて頂いとかなければ、矢張り、めぐりの大きい人は難儀であり、やっぱり難儀は難儀であり難儀が何時までたっても続いておる。それでは本当に詰らん話ですから、確かに、難儀が大きければ大きい程おかげも大きいというおかげを、受けなければならん為にそこの思い込みというものを、しっかり作る事である。
今こういう修行をさせて貰いよる、こういうう難儀を受けさして頂きよるが、神様に一心にお縋りしていかんならん時であるから、この先どげな風なおかげを下さるんだろうかと、心に何んかいそいそとしたというかね、そういう喜こびの湧く様な私は修行をさして貰わないかん。人並優れた修行をさして貰って、矢張り人並み優れたおかげを頂くのでありますから。今人並み優れた修行がありよるならば。
いよいよ心の中て、そりゃ苦しい苦しいけれども、この苦しい所を通り抜けさして頂いたら、神様はどういうおかげを、下さろうとしておるのだろうかと、それが楽しみになる様な信心をさして貰う為にです、も、そこんところを信じ思い込ませて貰わなければいけない。めぐりが大きければ大きいだけ、おかげが大きいと仰るのはそこの思い込みが出来るからなんです。
そこの思い込みが出来んならば、何時もめぐりに苛まれておる、その苦労の為にいわゆる自分が一番世の中の不幸、不幸せな者と云う様な一生で終わってしまわなければならない。その事を私今日神様にお知らせを頂いたのにですね、丁度あの昔、車井戸というのが御座いましたですね。二つの桶が付いていて、それでこう車にそれを本当にそこの思い込みが出来た人はですね。
例えばこう水が上がってきよる時には、おむたいですね、だからおむたい時にはですね、重むたい時にはあぁ、今水が上がって来よる時だと思うて徹底それを上げる訳ね。だからその水が、又、今度は空のこの下の方へこうやる時にはです、今度は上がって来るのは空なんです、その空のうえに上がって来る時にはも、必ず下で水をこの片一方の桶の方が水の方へ近づいて行きよる時なのですから、と云う様な頂き方ですね。
軽うなってもおかげであり、重うなってもおかげでありというて、徹底それをして行きよるうちに、水が何ぼでも溜まって行きよる時だと云う事です。所がですね、そう私、先程申しました様な思い込みがない人はですね、重たい時には、自分だけどうしてそんな思いをせんならんじゃろうかと思うてから、重いとをはなしてしまうから、又、元に戻ってしまう。軽い時にはいくら汲んだっちゃほんと、空ばっかりと思うとるけん。
どちらにしてもそのめぐりはめぐり、難儀は難儀で何時までたっても同じ事だとね。重たい時には今こそ水が上がって来よる時だと、徹底上げさせて頂きゃいいが、軽い時には今こそ水が片一方の桶が水面に届きよる時であるから、おかげを頂く前提であるとこう思うたら、それが楽しく出来る。水がサッサとその上がって来よる時であると云う事。もう、これがこれに、もう尽きる思いが致しますですね。
おかげを受ける人はそれが、この方の道は、喜びで開けた道だから喜びでは苦労はさせんと仰る。その訳が分る様な気が致しますね。だから、そこんところが分っておってもです、その思い込みがでけんと、只、いま申します様にどうして此の様な難儀が続くだろうかというて、言わばもう上がって来よると途中で離したりね、水があがって来る前提で神様をどうしてこんなに空ばっかりと言う風にその面だけを、おかげが受けられん面だけを考えておったんでは、おかげになりません。
確かに、もうめぐりが大きければ、大きいだけおかげも大きいというおかげを、受ける為にです、難儀がもし、人並み優れた修行させて頂いておる時にはです、神様が私にどういうおかげを下さろうとしておるのであろうかと云う様な、楽しみの湧く様な修行をさせて頂かねばならんと思いますね。
どうぞ。